シュリーフェンプラン破綻の真相|第一次大戦の電撃作戦を徹底解説
1906年にシュリーフェンの後を継いで参謀総長に就任したヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ)は、この計画に重大な現実的疑念を抱いていました。原案では西部戦線における兵力比率を「右翼7:左翼1」という極端なアンバランスに設定していましたが、フランス軍がアルザス=ロレーヌ地方からドイツ南部へ攻め込んできた場合のリスクを恐れた小モルトケは、右翼の兵力を削って左翼や東部国境の守備へと分散させました。
1914年8月、第一次世界大戦の火蓋が切られると、机上の計算は開戦初週から狂い始めます。作戦破綻を引き起こした直接的な要因は、主に以下の4点に集約されます。
第一に、ベルギー軍の激しい抵抗です。ドイツ軍はリエージュ要塞の攻略に想定以上の時間を奪われ、貴重な進軍スケジュールに狂いが生じました。さらに中立侵犯を名目として大英帝国が即座に参戦を決定し、イギリス遠征軍(BEF)がフランス軍の防衛線に合流したことは、ドイツ参謀本部にとって痛恨の計算違いでした。
第二に、ロシア軍の驚異的な動員速度です。ロシア軍は準備不足を承知のまま、開戦からわずか半月余りで東プロイセンへ侵攻を開始しました。これに狼狽した小モルトケは、西部戦線の主攻を担当していた右翼部隊から歩兵2個軍団と騎兵1個師団を東部戦線へ引き抜き、転進させる命令を下してしまいます。
第三に、マルヌの戦いにおける戦線崩壊です。1914年9月上旬、パリ目前まで迫ったドイツ軍第1軍(クローク指揮)と第2軍(ビューロー指揮)の間には、過酷な追撃によって約50kmの致命的な隙間(ギャップ)が生じていました。フランスの総司令官ジョフルとガリエニ将軍はこの隙を見逃さず、有名な「パリのタクシー部隊」による緊急輸送などを駆使して反撃(マルヌの戦い)を敢行。側面を突かれたドイツ軍は壊滅を避けるためにエーヌ川への後退を余儀なくされ、電撃戦の幕は下ろされました。
第四に、通信インフラと補給線の崩壊です。当時配備されたばかりの無線通信は暗号解読や電波障害に悩まされ、ルクセンブルクの後方本営に留まった小モルトケは前線の正確な戦況をリアルタイムで把握できなくなっていました。司令官の意図が前線に伝わらず、現場の独断専行が重なったことも致命傷となりました。