加藤登紀子と赤軍の真相|なぜ獄中で結婚?激動の昭和を完全解説
ここで整理しておくべきは、当時の政治セクトにおける「ブント(共産主義者同盟)」と「赤軍派」の決定的な違いです。藤本敏夫氏がリーダーを務めていたのはブントの主流派であり、ここから「前段階武装蜂起」を掲げて過激に飛び出していった分派が共産同赤軍派(のちの日本赤軍や連合赤軍の母体)でした。
つまり、藤本氏や加藤登紀子さん側の陣営にとって、赤軍派は「かつての仲間でありながら、無謀な軍事路線へと暴走していった分離派」という複雑な対立関係にありました。1970年に発生した「よど号ハイジャック事件」では、犯行グループが赤軍派であったため、ブント主流派の幹部だった藤本氏の元にも警察や関係者から情報収集や事態収拾の打診が入るなど、水面下での緊迫したやり取りが存在しました。
また、後に日本赤軍を結成して中東へ渡った重信房子氏との接点もしばしば取り沙汰されます。重信氏も元々は明治大学のブント系活動家であり、同世代の運動圏において藤本氏らと顔を合わせる機会はありました。加藤登紀子さん自身も同世代を駆け抜けた女性として重信氏の存在を認識しており、2026年に重信氏が懲役20年の刑期を満了して出所した際にも、歴史の証人としての複雑な感慨がメディア等で語られています。テロリズムを肯定することは決してないものの、あの激動の時代に命を削った若者たちの熱量と蹉跌を、加藤さんは誰よりも肌感覚で理解している表現者なのです。