大化の改新で何が変わった?豪族支配から天皇中心の国家へ激変した真相
歴史を整理するうえで最初に押さえておくべきなのが、「乙巳の変」と「大化の改新」の違いです。645年6月、飛鳥の板蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿が暗殺され、その父である蘇我蝦夷が自害に追い込まれました。この宮中クーデター劇そのものを干支にちなんで「乙巳の変」と呼びます。
首謀者となったのは、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。彼らが手を組んで蘇我氏本宗家を武力で排除した後、孝徳天皇を即位させてスタートさせた一連の政治的・制度的大改革こそが「大化の改新」にあたります。つまり、乙巳の変は改革を起こすための「政変の引き金」であり、大化の改新はその後に何年もの歳月をかけて実行された「国家改造プログラム」という位置づけです。
なぜ蘇我氏が滅ぼされなければならなかったのか。その蘇我氏滅亡の理由には、国内の権力集中だけでなく、緊迫した国際情勢が深く関わっていました。当時、中国大陸では強大な帝国「唐」が台頭し、朝鮮半島諸国を脅かしていました。国内で専横を極め、王族をしのぐ権威を誇っていた蘇我氏の専制政治のままでは、唐をはじめとする諸外国の脅威に対抗できないという強烈な危機感を中大兄皇子らが抱いたことが、クーデター決行の大きな動機となったのです。