カフカ新訳から放浪の美学へ――池内紀が言葉に託した自由の真実
池内の学問的探求は、机上の文献講読にとどまらなかった。サントリー学芸賞を受賞した名著『ウィーン・都市の詩学』をはじめとする著作群では、都市の路地裏やカフェ、墓地や古道具屋を実際に歩き回り、そこに堆積した人々の記憶と文化の襞を鮮やかに描き出した。ハプスブルク帝国の黄昏に咲いた世紀末ウィーンの文化を、生活者の息遣いとともに活写する筆致は、比較文化論の枠を超えた都市エッセイの極致とも評される。
その旅の視線は、ドイツ文学の巨人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテへと自然に結びついていく。岩波書店などで手掛けたゲーテ関連の著作や翻訳において、彼はゲーテを手の届かない文豪としてではなく、自然を愛し、旅を愛し、生涯現役の観察者であり続けた一人の人間として捉え直した。壮大な知識をひけらかすことなく、対象の本質をさらりと提示する語り口は、読者をヨーロッパ精神の深層へと誘う最良の手引きとなった。