本多忠勝はなぜ生涯無傷だったのか?蜻蛉切の秘密と驚愕の死因に迫る
忠勝の武名を天下に轟かせた最大の激戦が、元亀3年(1572年)の「三方ヶ原の戦い」に伴う一連の戦闘です。武田信玄率いる最強の武田騎馬軍団に対し、家康軍は壊滅的な敗北を喫しました。
この前哨戦である一言坂の戦いにおいて、忠勝は自ら殿軍(しんがり)を買って出ました。追撃する武田の猛将・馬場信春らの軍勢に対し、地形を巧みに利用しながら鉄砲隊と連携して足止めを成功させ、家康の本隊を見事に浜松城へ生還させたのです。
この戦いを目撃した武田軍の武将・小杉左近が落首として詠んだのが、有名な次の狂歌です。
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」
(※「唐の頭」は家康愛用のヤクの毛で作られた兜、「本多平八」は本多忠勝のこと)
さらに天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」では、秀吉率いる8万の大軍に対し、わずか500名の兵を率いて立ちはだかり、単騎で川の対岸から秀吉軍を睨みつけました。秀吉はその豪胆さに感嘆し、「忠勝を討ち取ってはならぬ。生け捕りにして我が家臣とせよ」と下知を出したと伝えられています。