市川九團次の現在と波乱の役者人生|破門の真相から海老蔵との絆まで
市川九團次の役者人生を語る上で避けて通れないのが、前名である「坂東薪車」時代の苦闘と、2014年に芸能界を揺るがした破門騒動です。千葉県出身の彼は歌舞伎の家柄ではなく、一般家庭から国立劇場第11期歌舞伎俳優研修生を経て角界の門を叩きました。1992年に四代目坂東竹三郎に入門し「坂東竹志郎」を名乗ると、その抜きんでた身体能力と真摯な芸道への情熱が認められ、1998年には師匠の芸養子となって三代目坂東薪車を襲名。上方(関西)歌舞伎のホープとして将来を嘱望される存在となりました。
順風満帆に見えたキャリアに暗雲が垂れ込めたのは2014年春のことでした。師匠である竹三郎側から「芸養子の解消」と「一門からの破門」が突然公表されたのです。伝統芸能の世界において、師匠からの破門は単なる事務所移籍とはわけが違います。松竹の番付から名前が消え、劇場の舞台に立てなくなる事実上の「業界追放」を意味していました。
この前代未聞の事態を引き起こした破門の理由について、当時は様々な憶測が飛び交いました。表面的な発表では「方向性の相違」「一門の統率を乱す行動」とされましたが、実情は外部舞台への積極的な出演や自主的な活動展開を巡る師弟間のコミュニケーション不全、さらには古典の枠組みを重んじる上方歌舞伎の重鎮たちとの価値観の乖離が背景にありました。「芸を広げたい」という若手のハングリー精神と、「師家の型を守り継ぐ」ことを第一義とする徒弟制度の掟が真っ向から衝突した結果だったといえます。
後ろ盾を完全に失い、廃業寸前まで追い込まれた彼に手を差し伸べたのが、当時歌舞伎界の風雲児として独自の舞台を次々と仕掛けていた十一代目市川海老蔵(現・十三代目市川團十郎)でした。海老蔵の自主公演『ABKAI』への出演をきっかけに才能を見出された彼は、2014年秋に海老蔵門下へ正式に移籍。翌2015年1月、新橋演舞場『寿初春大歌舞伎』において、約80年ものあいだ途絶えていた成田屋ゆかりの名跡「四代目市川九團次」を襲名し、奇跡の再起を果たしました。どん底の絶望から成田屋の屋号を背負う役者への転身劇は、歌舞伎史に残る劇的な復活劇として語り継がれています。