伊達藩の全貌|政宗の野望と62万石の真相から末裔の現在まで徹底解説
Q1:仙台藩と伊達藩は何が違うのですか?どちらが正式名称ですか?
A1:公的な統治組織としての正式名称は「仙台藩」です。江戸時代の大名は居城の地名を取って「仙台藩」と呼ぶのが幕府の公称でしたが、大名家の家名を取って通称として「伊達藩」と呼ばれることも多く、両者は同じ藩を指しています。
Q2:伊達政宗が派遣した支倉常長はなぜ不遇の最期を遂げたのですか?
A2:支倉常長が約7年の歳月をかけてローマから帰国した1620年、日本国内は徳川幕府による徹底したキリシタン禁教令が敷かれており、政宗もキリスト教を容認できない政治情勢にありました。外交使節としての功績は認められながらも布教や通商の目的は完全に潰え、常長は失意のうちに生涯を閉じることとなりました。
Q3:伊達騒動で悪人として描かれる原田甲斐は、史実でも逆臣だったのですか?
A3:近年の歴史研究では、原田甲斐は必ずしも逆臣ではなかったと評価されています。伊達家を幕府の改易処分から守るため、激化する一門間の内紛を抑え込もうと奔走した忠臣・実務派官僚の側面が強く、後世の創作によって悪役像が定着したと考えられています。
Q4:幕末に仙台藩が旧幕府側(奥羽越列藩同盟)についた決定打は何ですか?
A4:仙台藩は当初、新政府軍と会津藩の軍事衝突を回避するための調停に努めていました。しかし、新政府軍の参謀・世良修蔵が東北諸藩を侮蔑し武力討伐を強行する姿勢を崩さなかったため、自衛と東北諸藩の連帯のために「奥羽越列藩同盟」を結成せざるを得なくなった経緯があります。