京都と戦争の真実|大規模空襲を免れた理由と原爆投下計画の全真相
京都が原爆投下目標として通常空襲を制限されていたとはいえ、爆撃を全く受けなかったわけではありません。実際には終戦までに大小計5回以上の空襲が記録されており、市井の人々が日常の中で命を落としています。
中でも最大の被害を出したのが、1945年6月26日の早朝に発生した西陣空襲です。現在の京都市上京区出水通や智恵光院通周辺の住宅密集地に、米軍のB-29爆撃機から複数の500ポンド爆弾が投下されました。伝統産業である西陣織の町屋が立ち並ぶ地域は瞬く間に火の海となり、死者43名、重軽傷者66名、倒壊・焼失家屋292戸という甚大な被害を出しました。
このほかにも、東山区の馬町空襲(1945年1月16日)や右京区の三菱重工業京都機器製作所周辺への爆撃など、局地的な空襲が繰り返されました。西陣空襲の被災地となった上京区の辰巳公園には現在、犠牲者を追悼する「西陣空襲被災を語りつぐ碑」が建立されており、古都に刻まれた戦争の傷跡を静かに伝えています。