大鵬の出身地は樺太か弟子屈か?ウクライナ人の父と激動の生い立ち
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1945年(昭和20年)8月、ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して樺太へ侵攻を開始。この事態によって家族の運命は暗転しました。
白系ロシア人としてソ連政権に追われていた父親のマルキャン氏は、ソ連軍当局によって即座に拘束・連行され、家族は強制的に引き裂かれます。母・キヨさんと幼い幸喜を含む子どもたちは、身の危険を感じながら命からがら敷香を脱出し、樺太南端の大泊(現コルサコフ)を目指しました。これ以降、大鵬が生涯にわたって父と再会することは二度とありませんでした。
さらに、樺太からの引き揚げ船をめぐって奇跡的な出来事が起きます。一家は当初、引き揚げ船「小笠原丸」に乗船して北海道へ向かいましたが、航行中に幼い幸喜が激しい船酔いと高熱を発したため、経由地であった小樽港で急遽下船しました。その直後、航海を続けた小笠原丸は留萌沖で潜水艦の魚雷攻撃を受け、撃沈(三船殉難事件)。乗客600名以上が犠牲となる惨劇に見舞われたのです。母キヨの決断が、のちの大横綱の命を救う結果となりました。
北海道上陸後、一家は岩見沢や札幌などを転々とした後、キヨの再婚相手を頼って弟子屈町川湯へと移住します。極貧の生活の中、幸喜少年は納豆売りや木材運びなどの重労働をして家計を助け、冬には厳しい寒さの中で足腰を鍛え上げました。この過酷な弟子屈での日々が、不屈の大横綱の土台を作ったのです。