江戸を震撼させた「三日コロリ」の真相!死者数と幕末パンデミックの全貌
幕末のコロリ流行の経緯を辿ると、日本の開国と海外からの艦船来航が決定的な引き金を引いた歴史的事実が浮かび上がります。
日本における最初のコレラ流行は文政5年(1822年)の「文政コレラ」ですが、この時は箱根の関所を越えることなく江戸への侵入は食い止められました。しかし、日米修好通商条約の締結交渉が行われていた安政5年(1858年)、アメリカ海軍の軍艦ミシシッピ号が長崎へ入港したことで防波堤は完全に崩壊します。同艦内で発生していたコレラが長崎の街へと上陸し、東海道を通って凄まじい速度で東へと拡散。ついに防備の関所を突破して大都市・江戸を直撃したのが、歴史に名高い安政のコレラ大流行です。
一度火がついた感染の炎は止まらず、わずか4年後の文久2年(1862年)にも再び大規模な文久のコロリ大流行が発生しました。この再来では麻疹(はしか)の大流行と重なる複合災害となり、幕府の要職にあった要人から市井の名もなき町人まで、膨大な人命が立て続けに失われる事態へと発展しました。