法隆寺の鐘ではなかった?正岡子規「柿食えば」の真相と漱石の影
牧歌的で悠久の時の流れを感じさせる「柿食えば」だが、当時の子規自身の置かれた状況は、生と死の境界線を綱渡りする壮絶を極めたものだった。
1895年、子規は新聞『日本』の従軍記者として勇んで日清戦争の戦地・中国の金州へ渡った。しかし、戦地で結核が悪化。帰国の船中で猛烈な喀血に見舞われ、神戸病院に緊急入院した。医師からはもはや助からないと見立てられるほどの重篤な状態だった。
奇跡的に一命を取り留めた子規は、松山の漱石邸で静養し、体力がわずかに回復したところで東京への帰途につく。その道中で立ち寄ったのが奈良だった。子規にとってこの奈良旅行は、単なる気晴らしの観光旅行などではない。「これが人生最後の旅になるかもしれない」という悲痛な覚悟を胸に秘めた巡礼行だったのだ。
当時の金銭的事情も切実を極めていた。奈良旅行の費用は、松山を去る際に漱石から借り受けた約15円(現在の価値にして数十万円相当)が元手となっていた。自らの寿命の限界を誰よりも冷徹に悟っていた子規は、死の影に怯えるのではなく、目の前にある世界の美しさを貪り尽くそうとした。
「柿」は子規が生涯愛した大好物であり、重病の身でありながら一度に十数個を平らげ、周囲を青ざめさせたという逸話が数多く残る。死と背中合わせの極限状態にあった青年が、秋の実りである柿の甘美な命の味を噛み締め、古都の鐘の音に耳を澄ませる——。「柿食えば」の根底には、滅びゆく肉体と、不滅の歴史・自然との鮮烈な対比が存在している。