『ハゲワシと少女』の真相|ピューリッツァー賞の悲劇と誤解を検証
1994年4月、カーターはこの写真で報道写真界の最高峰であるピューリッツァー賞(特集写真部門)の受賞を果たしました。しかし栄光からわずか3か月後の1994年7月27日、故郷ヨハネスブルグの慣れ親しんだ小川のほとりで、車内に排気ガスを引き込み命を絶ちました。
世間では「ピューリッツァー賞受賞後の激しい批判とバッシングに耐えかねたことが自死の原因」と単純化されて語られがちです。しかし、関係者の証言や残された遺書から浮かび上がる撮影者の自殺理由は、はるかに深刻で複合的な精神的要因によるものでした。
カーターは南アフリカのアパルトヘイト末期、暴力が渦巻くタウンシップ(黒人居住区)の最前線で命懸けの取材を続けた伝説的写真家集団「バンバン・クラブ(The Bang-Bang Club)」の主要メンバーでした。日常的に凄惨な虐殺、リンチ、火炎瓶の投擲を間近で記録し続けた代償として、彼は重度のPTSD(心的外傷後ストレス障害)と抑うつ病に苦しみ、アルコールや薬物への依存を深めていました。
決定打となったのは、受賞発表の直前となる1994年4月18日、親友であり同僚の著名写真家ケン・オーステルブルークが取材中に銃撃され戦死した事件でした。自らも現場にいながら親友を救えなかった罪悪感、取材費や生活費の工面に追われる経済的破綻、そして未現像フィルムを紛失するトラブルなどが重なり、彼の精神は限界に達していました。
カーターが遺した手記には、彼を蝕んでいた苦悩が生々しく記されています。
「本当に、本当に申し訳ない。人生の苦しみが、喜びを完全に圧倒してしまった……。殺人、死体、怒り、そして飢えや怪我に苦しむ子供たちの鮮明な記憶が、私の脳裏から決して離れない」
バッシングはその傷口に塩を塗る一因ではあったものの、彼を死へ追いやった本質は、報道の使命感と人道の間で引き裂かれ、凄惨な現実を直視し続けたジャーナリストの心身の崩壊でした。