明治時代の平均寿命は40代?短すぎる数字の真相と知られざる死因

明治時代の平均寿命は40代?短すぎる数字の真相と知られざる死因について専門的な視点から解説いたします。専門家の見解をご覧ください。

成人に達した人々にとっても、現代とは全く異なる病魔の脅威が存在していました。当時の警察統計や内務省衛生局の報告書から浮かび上がる明治時代の死因ランキングの上位は、生活習慣病ではなく「急性・慢性の感染症」と「栄養障害」で占められています。

当時の死因の筆頭は肺炎・気管支炎、そして激しい下痢と脱水を引き起こす胃腸カタル(胃腸炎)でした。そして、それらに次いで恐れられ、大正期にかけて猛威を振るったのが国民病と呼ばれた結核です。

明治の産業革命を支えた製糸工場や紡績工場では、農村から集められた若い女性労働者(女工)たちが、換気の悪い粉塵の舞う環境で1日12時間以上の過酷な長時間労働に従事していました。劣悪な寄宿舎で集団生活を送る中、飛沫感染によって結核が爆発的に蔓延。結核を発病した女工たちが故郷の村へ帰されたことで、全国の農村部へ病が拡散するという悲劇的な連鎖が起きました。樋口一葉が24歳の若さで命を落としたのも肺結核であり、若い世代の命を奪う最大の死因となっていたのです。

もう一つの重大な脅威が、ビタミンB1不足によって引き起こされる脚気(かっけ)です。明治維新後、精米技術の向上に伴い、都市部を中心に「白米を腹いっぱい食べる」食習慣が普及しました。しかし副菜の乏しい白米偏重の食生活は、深刻なビタミン欠乏症を招きます。

この脚気は、日清・日露戦争における軍隊の戦闘力を根底から揺るがす軍事上の大問題へと発展しました。海軍の軍医総監であった高木兼寛は、イギリス医学の経験主義に基づき、航海中の食事に「麦飯」を導入して海軍内の脚気をほぼ根絶させました。これに対し、ドイツ医学の理論を墨守した陸軍軍医総監の森林太郎(文豪・森鴎外)らは、「脚気は細菌感染症である」との仮説に拘泥して白米給食を固守。結果として日露戦争において陸軍側では戦死者を上回る数万規模の脚気患者と甚大な病死者を出す惨劇を招いた歴史は、当時の医療観と組織硬直の恐ろしさを物語る象徴的なエピソードです。

中村 さくら

中村 さくら

マネー&キャリアエディター

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。