大逆事件をわかりやすく解説!幸徳秋水処刑の真相と冤罪の全貌
大逆事件の真相を理解する上で最も重要なポイントは、「実際にテロを計画していたごく少数のグループ」と「思想活動をしていただけで計画を全く知らなかった多数の無実の人々」が意図的にごちゃ混ぜにされたという点にあります。
事件の発端は1910年5月、長野県の明科製材所で働いていた機械工・宮下太吉が爆裂弾(爆弾)を密造していたことが発覚したことでした。取り調べの中で、宮下、新村忠雄、古河力作、そして女性革命家として知られる管野スガ(管野須賀子)の4名が、明治天皇の暗殺を具体的に企てていた事実が明らかになります。
ところが、警察と司法当局はこの好機を逃しませんでした。当時、非戦論や社会主義の論客として絶大な影響力を持っていた幸徳秋水を首謀者に仕立て上げるため、全国の社会主義者・無政府主義者、さらには仏教僧侶や単なる知人・文通相手に至るまで数百名を拘束し、最終的に26名を「大逆罪」で起訴したのです。
裁判は完全に非公開の秘密法廷で行われ、大審院(現在の最高裁判所に相当)による一審制であったため、被告人には上訴(控訴・上告)の権利すら与えられませんでした。弁護人として法廷に立った平出修や今村力三郎らが「秋水に謀叛の実行計画はなかった」と無罪を主張したものの、当局は最初から結論ありきで公判を進めました。
処刑された唯一の女性である管野スガは、獄中で密かに書き残した手記『死出の道艸(みちくさ)』の中で次のような痛烈な告白を残しています。
「秋水は予らの計画を極力反対したのである。(中略)彼を謀叛の首謀者として処刑するのは、言語に絶した不義不正の裁判である」
このように、実行犯グループの当事者自身が秋水の無実を証言していたにもかかわらず、国家権力は自らに都合の悪い事実を完全に黙殺しました。これが現代において「大逆事件=国家による計画的冤罪」と断定される決定的な理由です。