ひめゆり学徒隊の真実|壕内の看護と突如の解散命令が招いた悲劇
米軍の圧倒的な物量の前に日本軍の防衛線は崩壊し、陸軍病院壕は南部の摩文仁(まぶに)周辺へと撤退を余儀なくされます。生徒たちも複数の壕に分かれて避難を続けましたが、すでに沖縄本島最南部は陸と海から米軍に完全に包囲されていました。
そして1945年6月18日深夜、壕内に潜んでいた軍幹部から突如として「解散命令」が言い渡されます。
「これからは各自の判断で行動せよ」という命令は、軍の組織的保護の完全な放棄を意味していました。軍服を着ていない未成年の女子生徒たちにとって、壕の外に出ることは、米軍の猛烈な艦砲射撃、火炎放射器、毒ガス弾(黄燐弾)が飛び交う殺戮の嵐の中に放り出されることと同義だったのです。
事実、ひめゆり学徒隊の戦没者227名(生徒194名、教師13名、その他関係者含む)のうち、実に約80%以上がこの解散命令が出された6月18日以降のわずか数日間に命を落としました。追い詰められた生徒たちは、米軍の攻撃を受けるだけでなく、捕虜になることを極度に恐れる皇民化教育の影響から、自ら命を絶つ悲劇へと追い込まれていきました。