明治天皇伏見桃山陵はなぜ京都に?230段の階段と歴史の真相
1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御された際、政府や宮内省(現・宮内庁)の内部では「首都・東京に御陵を造営すべきではないか」という議論も当然持ち上がりました。明治維新以降、国家の中心は東京に移り、皇居も旧江戸城に置かれていたためです。
しかし、最終的に決定された地は京都の伏見桃山でした。その決定打となったのは、明治天皇ご自身の生前の御遺志です。宮内庁書陵部に残る記録や当時の側近の手記によると、天皇は生前より「我が身罷りなば、生誕の地であり歴代天皇が眠る京都の山城の地に葬るべし」との意向を明確に示されていました。幼少期を京都御所で過ごし、千年の皇都に対する深い愛着と皇統の連続性を重視された天皇にとって、終の棲家は東京ではなく京都でなければならなかったのです。
さらに選地において決定的な役割を果たしたのが、豊臣秀吉が築いた「木幡山伏見城」の本丸跡という立地です。伏見桃山は東山から連なる丘陵地に位置し、巨椋池(おぐらいけ)を見下ろす風光明媚な要衝でした。軍事・政治の拠点として強固な地盤と雄大な景観を兼ね備えたこの高台は、近代国家の礎を築いた大帝の墓所として、歴史的にも地形的にもこれ以上ない最高峰の聖地と見なされたのです。