吉田竜夫の生涯と死因の真相|タツノコプロ創業者が遺した伝説
吉田竜夫(本名:吉田龍夫)は1932年3月6日、京都府京都市に生まれました。幼少期から卓越した画才を示していた吉田は、戦後の混乱期に家族を支えるため、京都で街頭紙芝居の絵を描く仕事からキャリアをスタートさせます。挿絵画家の巨匠である岩田専太郎や梁川剛一の緻密な描写力に強く影響を受け、挿絵画家を志して上京。『京都新聞』や少年雑誌での挿絵連載を経て、1950年代半ばから本格的に漫画界へと進出しました。
『鉄腕力也』や『スーパージェッター』(講談社『週刊少年マガジン』連載・作画担当)などのヒット作を連発し、一躍トップ漫画家としての地位を築いた吉田は、やがて「自分の描いた絵を動かしたい」という強い情熱を抱くようになります。1962年10月19日、東京都国分寺市に自身のマネージャーを務めていた実弟の吉田健二らとともに「株式会社竜の子プロダクション」を設立。ここに、東映動画や虫プロダクションと並び立つアニメーション史の巨塔が産声をあげました。
しかし、スタジオの快進撃が続いていた1970年代半ば、過密な制作スケジュールと経営の重圧が吉田の身体を蝕みます。体調不良を訴えて精密検査を受けた結果、進行性の肝臓癌(肝がん)と診断されました。病床にあっても新作の企画や絵コンテのチェックに情熱を燃やし続けましたが、1977年9月5日、多くのファンと関係者に惜しまれながら満45歳という若さで息を引き取りました。この早すぎる旅立ちは、アニメ黎明期を全力で駆け抜けた孤高のトップランナーの壮絶な幕引きとして記録されています。