明智光秀の死因と本能寺の変後の落ち武者狩り | かっこいい有名人研究所
ここまでは明智光秀の最期について解説してきました。
明智光秀の身内である妻や母親の死因も有名なので、2人についても紹介します。
妻・煕子は病死していた
妻・煕子(ひろこ)は看病疲れによる病死と言われています。
戦国時代でとても仲が良く、明智光秀は生涯煕子を愛し続けました。
本能寺の変の6年前、明智光秀は病気で倒れてしまったのですが、煕子は必死に看病し、その甲斐もあって明智光秀は回復しました。
しかし、看病で疲れ切ってしまったのか、入れ替わるようにして煕子も発病してしまいます。
もちろん明智光秀も神社で祈祷を依頼したりと必死に看病し、一時的に回復しましたが容態が悪化し、46歳にして息を引き取りました。
当時は先だった妻の葬儀には立ち会わない風習があったようですが、明智光秀は妻の葬儀に参列したようです。
最愛の妻を亡くす明智光秀の気持ちを考えると、いたたまれません。
母・お牧の方は処刑されていた
母親のお牧の方は人質となり処刑され、亡くなりました。
明智光秀は当時、織田軍の丹波攻略の司令官をしていました。
丹波攻略の為、織田信長を敵対していた丹波の大名である波多野秀治を攻めていました。
明智光秀は波多野秀治に降伏を求め、母親を人質として送り込みました。
条件は波多野家の領地を安堵すること、波多野一族を助命することでした。
降伏すれば母親はすぐに戻ってくる予定で、この条件を飲んだ波多野秀治は降伏、丹波攻略を成功しました。
しかし、織田信長は明智光秀の話を聞かず、波多野一族の粛清を命じ、波多野秀治やその弟を磔の刑にしました。
波多野家にとっては明智光秀の裏切りです。
怒りに震えた波多野家は、人質にとったお牧の方を磔の刑にしました。
本来戻ってくるはずだった母親が磔の刑に処刑されたことを考えると、立ち直れない傷を負ったのではないでしょうか。
明智光秀はこの母親のことをきっかけに織田信長を恨み、本能寺の変を起こした理由とも言われています。