志賀海神社の真相|龍の都に呼ばれる理由と鹿の角・潮井砂の謎
志賀海神社の社伝によると、その創建年代は神代にまで遡ります。当初は志賀島北部の勝馬(かつま)に「表津宮(うわつみや)」「仲津宮(なかつみや)」「沖津宮(おきつみや)」の三社が祀られていましたが、2世紀から4世紀頃、勝山の麓にあたる現在の地に遷座し、三神を併せて祀るようになったと伝えられています。
主祭神は、イザナギノミコトが黄泉の国の穢れを海で祓い清めた際に誕生した綿津見三神(底津綿津見神・仲津綿津見神・表津綿津見神)です。海の表層から中層、深海に至るすべての海域を掌握し、潮の満ち引きや天候、人々の生死や運命すら司る根源神とされてきました。この神々を代々奉斎してきたのが、古代最強の航海集団として知られる阿曇氏(あづみし)です。
阿曇氏は優れた航海術と軍事力を誇り、ヤマト王権の海軍・外交の要として活躍しました。長野県の安曇野(あづみの)や愛知県の渥美(あつみ)半島など、全国に点在する「アヅミ」の地名は、この志賀島を出自とする海人族が日本各地へ移住・開拓した確固たる痕跡です。志賀海神社には今なお年間大小あわせて70回もの神事が伝承されており、その多くが古代の海洋儀礼の原型を留めています。「龍の都」という別称は、単なる比喩ではなく、龍神信仰と海人族の圧倒的な権威が融合した歴史的証明に他なりません。