1864年の出来事総まとめ!池田屋事件・禁門の変と幕末激動の全真相
京都で禁門の変が鎮圧されてからわずか半月後、長州藩は本拠地・長門国(山口県)で欧米列強との圧倒的な軍事衝突に見舞われました。これが四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)です。
事件の直接の理由は、前年(1863年5月)に長州藩が朝廷の攘夷期日通達に従い、下関海峡を通過する米・仏・蘭の商船や軍艦に対して一方的な砲撃を行ったことにあります。航行の自由を侵害されたイギリスの駐日公使オールコックは、フランス、アメリカ、オランダに呼びかけ、合計17隻の大艦隊(大砲288門、兵力約5,000名)を編制して下関砲台への壊滅的な攻撃を実行しました。
前田砲台をはじめとする長州側の拠点は最新式のアームストロング砲や艦砲射撃の前にわずか数日で制圧され、地上戦でも陸戦隊に圧倒されます。この壊滅的敗北のなか、藩の全権を任されたのが脱藩の罪を許された高杉晋作でした。高杉はイギリス側代表クーパー提督らとの停戦協定において、賠償金の支払いを幕府に肩代わりさせるなど巧みな交渉を展開しつつ、「観念的な攘夷は不可能であり、欧米の近代兵器を導入して軍制を根本から改革しなければ国家も藩も生き残れない」という決定的なリアリズムを藩内に定着させました。
一方、治安維持の最前線で名を上げた新選組の1864年の動向も見逃せません。池田屋事件の殊勲により、幕府および会津藩から破格の報償金と感謝状を授与された新選組は、市井の浪人集団から公的な軍事治安組織としての威信を確立。隊士募集のために近藤勇自らが江戸へ下り、伊東甲子太郎ら有能な人材を大量に獲得しました。しかし、組織の急拡大は内部対立をも生み、隊規違反者の粛清や派閥争いなど、内憂外患の組織力学が加速した年でもありました。