橋龍改革の真相と橋本龍太郎の真価|省庁再編が残した現代への遺産
橋本龍太郎氏の政治家としての歩みは、極めて緻密な政策へのこだわりによって支えられていました。1937年に大蔵官僚・厚生大臣を務めた橋本龍伍氏の長男として生まれ、慶應義塾大学法学部を卒業後、父の急逝に伴い26歳の若さで衆議院議員に初当選を果たします。
当選後は社会保障分野に深く傾倒し、卓越した政策知識を武器に「厚生族のプリンス」として頭角を現しました。厚生大臣、運輸大臣、大蔵大臣、通商産業大臣といった主要閣僚を歴任する中で、国鉄民営化の実務を取り仕切るなど、剛腕政策通としての評価を不動のものにしていきます。特に1995年の日米包括所得協議における自動車交渉では、米国のミッキー・カンター通商代表部(USTR)代表と丁々発止のタフな交渉を繰り広げ、国際的な存在感を強烈に印象付けました。
自民党内では最大勢力であった経世会(のちの平成研究会・いわゆる橋本派)の看板政治家として君臨し、1995年の自民党総裁選で小泉純一郎氏を圧倒して総裁に就任。翌1996年には村山富市氏の後を継いで内閣総理大臣の座に就きました。政策通としての圧倒的な見識と、派閥の強固な組織力を併せ持った、自民党黄金期を象徴するサラブレッドの頂点到達でした。