ラフマニノフピアノ協奏曲第2番の奇跡|絶望からの復活と名盤解剖
ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は一体なぜ世界中で愛され続けるのか?その根底には、人間が味わう極限の挫折と、そこからの劇的な再生の物語が刻まれているからです。
1897年、若き天才として嘱望されていた24歳のラフマニノフは、満を持して発表した『交響曲第1番』の初演で破滅的な挫折を味わいました。指揮を担当したアレクサンドル・グラズノフの不出来や悪意ある批評家たちの猛烈な酷評――特に有力批評家キュイによる「地獄に音楽院があれば、この曲は激賞されるだろう」という執拗な罵倒――により、ラフマニノフの自尊心は完全に打ち砕かれたのです。
初演直後から彼は重度の神経衰弱に陥り、深刻な無気力と創作不能の状態に陥りました。後年の回想録において彼は、「何も書くことができず、ただ無為に日々が過ぎ、絶望が心の底に沈殿していた」と述懐しています。約3年間に及んだラフマニノフのうつ病からの復活の契機となったのが、モスクワで神経病理と催眠療法を研究していたニコライ・ダール博士との出会いでした。
アマチュアのヴィオラ奏者でもあったダール博士は、音楽への深い愛情と理解を持ち合わせていました。1900年1月から4月にかけて連日行われた治療セッションで、博士は薄暗い診察室で安楽椅子に腰掛けたラフマニノフに対し、次のような暗示を静かに語りかけ続けたと伝えられています。
「あなたは新しい協奏曲を書き始める。仕事は順調に進み、その作品は極めて素晴らしい質のものとなる――」
この催眠暗示と真摯な対話療法は凍りついていたラフマニノフの創造性を解きほぐしました。驚くべきことに、その年の夏には第2楽章と第3楽章が一気に書き上げられ、翌1901年に第1楽章を補完。同年11月9日の全曲初演(ラフマニノフ自身のピアノ独奏、アレクサンドル・ジロティ指揮)は空前の大成功を収め、彼は破滅の淵から劇的な復活を果たしました。本作のスコア冒頭に「ニコライ・ダール博士に捧ぐ」という献辞が掲げられているのは、単なる儀礼ではなく、自らの命を救ってくれた恩人への魂からの感謝の証なのです。