聖徳太子は消えたのか?厩戸皇子への教科書変更と実在説の真相
実在の厩戸皇子が残した足跡は、決して後世の創作物ばかりではありません。皇子が生きた6世紀末から7世紀初頭は、新興仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の権力抗争が終結し、東アジアの大国・隋(ずい)の統一によって日本が激しい外交プレッシャーに晒されていた変革期でした。
この激動の時代、日本初の女性君主である推古天皇、強大な権勢を誇った豪族・蘇我馬子、そして若きブレーンであった厩戸皇子による三者鼎立の協力体制、いわゆるトロイカ体制が敷かれました。その中で打ち出された主要な政策は、古代日本の国づくりを画期的に加速させています。
第一に、603年に制定された冠位十二階です。生まれついた家格や氏姓にとらわれず、個人の才覚や功績に応じて12段階の冠位を授ける画期的な人事制度であり、官僚国家形成への礎を築きました。
第二に、翌604年に発布されたとされる十七条憲法です。「和を以て貴しとなす」に代表されるこの規定は、現代の法律とは異なり、豪族や役人たちが守るべき道徳的指導理念と国家官吏としての服務規程を明文化したものでした。
第三に、対外外交の転換点となった遣隋使と小野妹子の派遣(607年)です。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という有名な国書は、強大な中華帝国に対して臣従ではなく対等な外交関係を要求し、東アジアにおける独自の主権を打ち出すための大胆不敵な試みでした。
さらに法隆寺建立の経緯も無視できません。父・用明天皇の病気平癒を祈願して着工された斑鳩寺(後の法隆寺)は、単なる宗教施設にとどまらず、皇子が自らの拠点とした斑鳩宮の鎮護と、遣隋使がもたらした最新の大陸文化や高度な建築技術を結集させた先進的なシンボルだったのです。